虚圏の空はただ無が広がっているばかりで、見るべきものは何もない。
そうと分っているのに、日に何度かは窓を通して、外を見上げるのだ。
そもそも虚圏の建築物に窓があること事態がおかしい。
窓など必要ないのだ。
楽しむべき景色も、降り注ぐ光も、ここには無いのだから。
建築物とは、ただ外と居住する空間とを、区切る為のものなのだ。
だから窓など、捨ててきた世界ヘの郷愁が作らせた、ただの無意味な存在に過ぎない。
それでも、何も無い窓の向こう側を見ることを止めないのだ、この男は。
「何を考えている?」
背後からの問いかけを市丸は無視した。 応えを求めているように、聞えなかったからかもしれない。
部屋には二人しかいない。声の主は振り返らずとも分かっていたのだから。
「尸魂界にでも、心を残して来たか?」
言葉に何か含みを感じたのだろうか、やっと市丸が振り返った。
椅子に深く腰掛けて、頬杖を付いたままで藍染はつまらなそうに言い放った。
「そんなに気になるなら連れてくるなり、消し去るなり、片をつければよかろう。手勢がいるなら好きなだけ連れて行ってもいい」
どうでも良さそうに言葉を紡いでみせたものの、隙無く探る目線は隠せなかった。
それにただ、ふんわりと市丸が笑ってみせたのが、気に食わない。微かに眼を眇めた。
「おいで、ギン」
椅子に座ったまま、無表情な声で市丸を呼んだ。
黙って市丸が藍染の前に立つ。やはり無言の藍染が、腰の斬魄刀を取り上げた。
次いでしゅるり、と帯を解いて市丸の前を肌蹴けさせる。下帯までも解いて、床に落とした。
「あいつらが裏でボクの事、何て呼んでるか、知ってはります?」
これまで身動き一つしていなかった市丸が、顕わになった肌を撫で上げようとしていた藍染の手を止めた。
ちらりと藍染の眼が動く。
「"藍染様の色子" ま、ホンマの事やけど?」
一見、笑っているようで全く表情を読ませない相貌で、市丸はくくく、と笑いを溢した。
「要みたいに役がついてる訳でもあらへん。ただ藍染様の元で副官として側におるだけやし。特に目立った行動も発言もせぇへん。一体こいつは何者やて思われてて、それで結局、影で色子だなんて呼ばれとる。つまり舐められとる、と言う事や」
「……ギン」
視線と声で、もう止せと藍染が言ったが、市丸はまるで構う様子はない。
「そんな奴らがボクの言う事を素直に聞くやなんて、本気で思ってはるんですか」
「お前がどれだけの能力を持っているのかなんて、探査神経を使えば簡単に…」
溜息と共に分かりきった事柄を口に出す。だが、そのセリフは最後まで言わなかった。
そう簡単に分かること、なのだ。
市丸の霊圧のレベルは申し分ない。
そして市丸なら、相手に舐められている事すら逆手にとって、己の思うように誘導させる事など容易いことだった。
何処にも問題など、有りはしない。
では、本当は何が言いたかったのか?
ギンはただ不満を口にしていたのではない、と言う事だ。
ただ、藍染の思考を逸らしたかったのだろう、 最初に口にした質問から。
尸魂界に残してきた存在から。
藍染は目の前にいる市丸を見た。市丸はしらっとした顔で、藍染を見返している。
藍染はもう一度溜息をついた。
「ギン」
「はい、藍染様」
とってつけたような敬称で呼ぶのに、藍染ははっきりと苦虫を噛み潰したような顔をした。
かろうじて羽織っている着物ごと市丸を引き寄せる。
「二人きりの時は名前で呼べ、と言ったはずだ」
「…惣右介」
引き寄せた唇を、噛み付くように貪った。応じる市丸の吐く息が、もう甘い。
「惣右介」
市丸の身体は快楽に弱い。いい所を触れれば簡単に火が付く。
「惣右介」
熱に浮かされたように囁き続け、藍染の愛撫に身悶える。 脇から胸、首へと辿る指先がどんどんと熱を生む。
ふ、と市丸が吐息を洩らした。
「ちゃんと見るんだ、ギン。誰がお前を抱いている?」
うっすらと紅潮した顔で市丸が、藍染を見る。
「惣右介…」
「そうだ、私だ。間違えるなよ?」
うっそりと市丸が微笑った。 その笑みに藍染の心が、ざわりと騒ぎ立てられる。
呼べば、来る。
命ずれば、応じる。
身体はこれ程もない位に従順に側に居ると言うのに。
何処を見ているのか分らない、何を考えているのか図れない。
市丸が我を忘れて、あられもない声を上げる事はめったとない。
その事が余計に藍染をムキにさせた。執拗に触れて、撫でて、舐め上げた。
「んんっ、は、ぁ…」
のぞけって目の前に晒された細首に、唇を寄せる。
ふふふ、と含み笑いを零しながら、市丸の細い指が藍染の髪をくしゃりと掻き混ぜ、弄んだ。
そして穏やかな刺激では不満とばかりに、自ら腰を揺らして催促をする。藍染も笑った。
と、市丸が最後の一枚と羽織っていた着物が、するりと床に落ちた。
は、と息を飲んだのは、藍染でも市丸でもなかった。
確信犯の笑みを浮かべて全裸の市丸が、背後の闇に話し掛ける。
「そんな所で突っ立って見てへんと、こっちにおいでや、要」
そこにはここ虚圏では統括官の位を戴く、東仙要が、立っていた。
盲目の東仙が二人の行為を、直接的に見た訳ではないだろうが、どういう状況かは容易く感知出来ていたはずだ。
その証拠に、二人の方から顔を背けている。
東仙の顔が上気しているのを、握り締めた拳が震えているのを、藍染は見てとっていた。
「なぁ、要。一緒に、しよ?」
東仙は何かを振り切るようにして、無言のまま慌ただしく立ち去った。
…今日はとても反応が良い、と思っていたら、なるほど実は背後で見ていた要を、挑発していたと言う事か。
藍染は憮然とした。
「ギン」
両腕で胸の中にキツク抱きしめる。市丸の身体は何の抵抗もせず、されるがままに抱き込まれた。
「あの堅物がどうやって女抱くんか、興味あったんやけど。相変わらずつまらん奴」
「ギン」
それ以上聞きたくなくて、重ねて名を呼んでやっと、ん?、と小首を傾げて藍染に気持ちを戻してきた。
この男は自分が想うほどには、自分の事を想ってはいない。
それを改めてまた思い知らされた。その歯痒さに歯軋りする。
しばらく黙ったままの藍染に、焦れた市丸が擦り寄って顎を甘噛みした。 上目遣いで誘惑する。
「…もう、せぇへんの?」
お互いに中途半端に熱くなった身体を持て余していた。藍染が苦笑する。
「全く、お前はタチの悪い」
「意地の悪いお人には、似合いの相手やろ?」
くすくすと市丸が笑う。
気まぐれに擦り寄って来たり、気の無い時にはそっぽを向く。腕の中にいるのに、他人にあからさまな興味を見せたり。
それでも、本心を気取られるような隙を、容易く見せたりなどしない。
人前では命令に従順な分だけ、床では気分一つでころころ変わる市丸の気まぐれに、心が乱された。
だがそれも悪い気分では無い。
「お前はまるで猫だな」
「従順で獰猛な犬の役は要がやってくれてるし、この位がちょうど良ぇでしょう?」
腕の中の存在は、まるで悪びれた様子が無い。
全く、と心の中だけで嘆息する。
こんな掴み所の無い相手に、惚れた自分が悪いのだ。
「…なぁ」
催促されずとも、手放すつもりなど毛頭なかった。市丸を抱きかかえて立ち上がる。
「場所を変える」
抱き上げられて驚いた顔をみせた市丸も、すぐに藍染の首に腕を回してくすくすと笑い出した。
もう二度と他人に邪魔される事が無いように、結界で閉じた空間に市丸を閉じ込めるのだ。
少なくともこの情事が終わるまでの間は、市丸は付き合ってくれるだろう。
抱いている間、市丸の目が空を求めて彷徨うのを、見ない振りをしていればいい。
ホントに、タチの悪い。
それでも、見ていない振りをしている間は、側にいてくれるのだ。
この愛しい天邪鬼は。
……何をやってるんやろ。
自分で自分がよく分らなくなる。
心に決めた事を通すために、他人も、そして自分すらも欺いた。
だがそのうちに、一体何が自分の本心なのか、分らなくなるのだ。
そうなるといつだって自分だけでなく、他人までも傷付けたくなる衝動に駆られた。
自分の身の内に飼っておけなくなった衝動を、紛らわす為にただ人肌を求めた。
誰でも良かった。 求めて、激しく乱れられるのなら。
そうしていったん体内の熱を吐き出してしまえば、次に襲ってくるのは、いつもひどい虚脱感だった。
……何をやってるんやろ。
大切なモノを守る為、だったはずなのに。ひど遠くに離れてしまった気がする。
背中越しに腰を抱かれていた。背後の藍染は眠っている。密着した人肌が心地いい。
市丸の眼はありもしない、窓の外の景色をまた探していた。
……乱菊。
大切な名前を、そっと心の中だけで呟いた。
最後に会った時のことを、何度も思い出す。
双極で彼女に捕まった。
そこに虚圏からの迎えが来た。予定通りの、別れの場面だった。
『もうちょっと捕まっとっても良かったのに…さいなら、乱菊』
そう告げた時の彼女の顔が、忘れられない。
『ご免な』
その言葉だけで、何が伝えられたというのか。
彼女の中では、間違いなく自分は裏切り者で、大罪人だった。
許されようとは思わない。憎まれていても仕方がない。
むしろ憎まれている方が、好都合だった。
自分という存在を覚えていてさえくれるのなら、その感情が憎しみであっても一向に構わない。
だって、出合ってからこれまで、いつも考えていた。
どうすれば、ずっと自分に惹き付けていられるのか、と。
そして実際に様々な手を使って、それを実行した。
乱菊を自分に、牽き付けるだけ牽き付けておいて、それでそのまま放り出して、市丸は虚圏にやって来たのだ。
互いに手を取って、茨だらけの道を一緒に歩いていく勇気も無ければ、
その手を放して、他人と幸せになる機会を与えるだけの矜持も無い。
大切だと思っているのに、その人の不幸を願ってる。
自分のいないところで、幸せにならないで欲しい。
自分も幸せにならないことで、どうかその事を許して欲しい。
身勝手な言い分だった。
大事な人の、不幸を願う。
…狡い男や、ボクは。
市丸が声も出さずにそう呟くのを、藍染は黙って聞いていた。
「
ボクはなんでも思ひ出します
ボクはなんでも思ひ出します
でも、わけて思ひ出すことは
わけても思ひ出すことは……
――いいえ、もうもう云へません
決して、それは、云はないでせう
忘れがたない、虹と花
忘れがたない、虹と花
虹と花、虹と花
どこにまぎれてゆくのやら
どこにまぎれてゆくのやら
(そんなこと、考へるの馬鹿)
その手、その脣、その唇の、
いつかは、消えて、ゆくでせう
(霙<みぞれ>とおんなじことですよ)
あなたは下を、向いてゐる
向いてゐる、向いてゐる
さも殊勝らしく向いてゐる
いいえ、かういつたからといつて
なにも、怒つてゐるわけではないのです、
怒つてゐるわけではないのです
忘れがたない、虹と花
虹と花、虹と花
(霙とおんなじことですよ)
「別離」抜粋 中原中也
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